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AIが神になる日――シンギュラリティーが人類を救う 紹介

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发表于 2017-7-15 13:33:54 | 只看该作者 |只看大图 回帖奖励 |正序浏览 |阅读模式
本帖最后由 顾汉现 于 2017-7-15 14:14 编辑

AIが神になる日――シンギュラリティー(奇点)が人類を救う 単行本 – 2017/7/12

松本 徹三 (著)

内容紹介
村上憲郎、夏野剛、高木友博 絶賛。

村上憲郎(前Google日本法人代表取締役)
「今後AIについて何かを語るとき、この本が提起する諸論点を無視しては語れなくなると思う。」

夏野剛(慶應大学特別招聘教授)
「AIの真髄を理解したい人、正しく理解すべき人、これらすべての人にとって必読の書。」

高木友博(明治大学理工学部教授)
「ここまで広範な分野を深く理解し、縦横無尽かつ明瞭に語れる人を私は過去に見たことがない。」

コンピューター技術の発展型であるAIと、その究極の姿であるシンギュラリティーは、人類に何をもたらすか?

AIが次世代のAIを自ら作り出すことにより能力が加速度的に向上して、ついに「シンギュラリティー」が実現する時期が近づきつつある。これは、想像を絶するほどの凄まじい変革を人間社会にもたらすだろう。
産業革命は、人間の肉体的な限界を破って人間社会の在り方を変えた。コンピューターは、人間の頭脳の一部の機能を拡大して、第二の産業革命を起こしつつある。しかし、AIの究極の姿であるシンギュラリティーは、人間の頭脳のほとんどすべての機能を複製、拡大して、まったく新しい世界を創り出す潜在力を秘めている。
本書は、こうした認識をベースに、著者の豊かな知見を通して、人間が行ってきた技術革新とは何か、人間とは何か、人間が信じてきた神(宗教)とは何かを考察し、今後人間がどのようにAIに向かい合うべきかを提示する。

~本書の予言~

・シンギュラリティー到達後、AIは人間の手の届かないものとなり、人類の新しい神として、人類がかかえているあらゆる難問を解決するだろう。(そのような方向に持っていかねば、人類は自らの愚かさのために、必ず自らを破滅させてしまう。)
・かつて多く人が夢想したものの、現実には正反対のものになってしまった「共産主義の理想社会」が、シンギュラリティーによって実現され、人類は、真の意味での「人間らしい自由な生き方」を享受できるようになるだろう。

内容(「BOOK」データベースより)
シンギュラリティーに到達した究極のAIは、人類に何をもたらすか?

著者について
松本 徹三 (まつもと てつぞう)
(株)ジャパン・リンク代表取締役社長、ソフトバンク(株)シニア・アドバイザー。
伊藤忠(米国会社SVP、東京本社通信事業部長等)、クアルコム(日本法人社長、米国本社SVP)、ソフトバンクモバイル(取締役副社長)等で55年にわたり第一線の仕事をこなし、現在もなお、コンサルタントとして世界を舞台に活躍中。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
松本/徹三
(株)ジャパン・リンク代表取締役社長、ソフトバンク(株)シニア・アドバイザー。伊藤忠(米国会社SVP、東京本社通信事業部長等)、クアルコム(日本法人社長、米国本社SVP)、ソフトバンクモバイル(取締役副社長)等で55年にわたり第一線の仕事をこなし、現在もなお、コンサルタントとして世界を舞台に活躍中(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

単行本: 240ページ    ¥ 1,512
出版社: SBクリエイティブ (2017/7/12)
言語: 日本語
ISBN-10: 4797393068
ISBN-13: 978-4797393064
発売日: 2017/7/12
梱包サイズ: 18.8 x 13.2 x 1.5 cm

https://www.amazon.co.jp/dp/4797 ... ription_feature_div



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 楼主| 发表于 2017-7-15 13:37:27 | 只看该作者
本帖最后由 顾汉现 于 2017-7-15 14:18 编辑

Planetwayがアドバイザリーボード設置、松本徹三氏らが就任

(Planetway: 行星道路   アドバイザリーボード: 顧問委員會)

【 アドバイザリーボード・メンバー】

◆ 松本徹三氏  Ted Matsumoto ◆  (1939-2017~、77才~)

1962年 京都大学法学部を卒業、伊藤忠商事(株)に入社。
伊藤忠アメリカのSenior Vice President兼エレクトロニクス部長、東京本社の通信事業部長、マルチメディア事業部長、宇宙情報部門長代行などを歴任。1996年に独立し、コンサルタント業の(株)ジャパン・リンクを設立。

1998年、同社の顧客であった米国のクアルコム社の要請を受けてクアルコムジャパン(株)を設立し、代表取締役社長に就任。 2005年には 同社取締役会長 兼 米国本社 Senior Vice President に就任し、日本に加えて東南アジア・大洋州を統括すると共に、グローバルベースのモバイル新サービスの開拓に取り組む。

2006年9月にソフトバンクの孫正義社長の要請を受け、同社が買収したボーダフォン日本法人の執行役副社長(技術統括兼CSO)に就任。同年10月にはソフトバンクモバイルと改名した同社の取締役副社長に就任。2011年6月に副社長を退任、2012年6月には取締役(特別顧問)も退任したが、その後も契約ベースで同社のシニアアドバイザーを務める。

2013年11月からは(株)ジャパン・リンクを復活させてコンサルタント業を再開しており、現在も国内外の通信事業者等を中心に数社との契約がある。
2013年より2年間は、明治大学専門職大学院グローバル・ビジネス研究科の特別招聘教授も務めた。
1995年から1998年にかけて、久慈毅のペンネームで小説仕立てのビジネス書を3冊ダイヤモンド社より上梓、2017年7月には、本名で「AIが神になる日(シンギュラリティーが人類を救う)」をSBクリエイト社より上梓している。

ヤーン・プリッサル氏
 ヤーン・プリッサル氏は、エストニア共和国(爱沙尼亚)のサイバーディフェンスユニットの副司令官。以前はエストニア最大の銀行でITリスクマネージメントのリーダーを務め、さらに新興テクノロジー企業数社でCTOおよびエンジニアを歴任している。
 また同氏は「NATO Cooperative Cyber Defense Centre of Excellence」で、技術演習を企画した先導者の1人でもある。自身のエージェンシーからボランティアやセキュリティーエキスパートの集結を支援し、数年来ホワイトチームを指揮している。
ターヴィ・コトカ氏
 ターヴィ・コトカ氏は、電子政府・デジタルヘルスケア・通信ソリューション分野のリーディングカンパニー、Nortalの共同創業者/CEOとして事業を統括・指揮。同社をバルト地方でNo.1ソフトウェア開発会社への成長に貢献した経歴を持つ。
 2013年より、エストニア政府経済通信省へ入省。エストニア政府CIOおよび経済通信省 局次長を務める。経済政策の1つである「e-Residency」の生みの親であり、エストニア以外の外国籍者に対して、ヴァーチャル住民としての登録と会社を登記できる仕組みを創出した。
 今後定期的にアドバイザリーボードを開催し、豊富な経験と知識を持つ3名からさまざまな視点からアドバイス・提言をもらうとしている。

https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000011.000021086.html

http://weekly.ascii.jp/elem/000/000/399/399102/

妊娠/不妊に関する基礎知識をスマートフォンで手軽に学べるwebサイトを獨協医科大学より受託。「こうのとりラーニング」として一般公開を開始!
by マグネティーク株式会社 on 2017.7.4 : http://thebridge.jp/prtimes/243120



私の履歴書 - 全文:
My Story
Ted - 松本徹三


生い立ちと学生時代 (1939 – 1962年)



私は、兄一人、姉二人の末子として、1939年に東京で生まれた。



父は銀行員だった。先祖は北条家の家老格だったが、秀吉の小田原攻めを目前にして、殿様の子供を一人預かって田舎に身を隠し、15代にわたる家系図だけを守って、そのまま百姓として息を潜めていたらしい。15代目の当主であった祖父が米相場に失敗して一家は貧窮したが、四人兄弟の中で、父だけが辛うじて大学を出して貰えたと言う。



銀行で仕事をしている時に関東大震災にあい、周りで多くの人達が死んでいる中でも何とか生き延びた事から、「人並み以上の強運」を自認していた。50歳代の終りに胃潰瘍を患い、大きな手術をしたが、結局99歳まで生きた。生涯を通じて「人の悪口を言ったことのない人格者」と評されていた様だが、本人はそのことを喜んではいなかった。「自分は本当はもっと悪い人間だった」というのが口癖だった。



母は勝気な人だった。生家は、東京の下町、根岸、坂本界隈で青物商を営んでいたと言う。江戸城に日本で初めて外来のトマトを納めたと聞いたことがあるので、相当名の売れた商家だったのだろう。その頃の商家の娘は、未だに江戸時代の気風を残し、歌舞伎役者などにうつつを抜かしているのが普通だったらしいが、母は両親を説得して高等女学校にまで行かせて貰ったという。その為に、「変わり者」という意味で、「カワちゃん」という仇名をつけられたらしい。



私が生まれたのは東京の郊外だったが、父の転勤で、生後3ヶ月で大阪に移り住み、成人するまで主として大阪の郊外に住んだ。その間に、一時期東京に住んだこともあったが、空襲が激しくなったので、栃木県に疎開した。そのおかげで、ほんのわずかの差で東京大空襲を免れた。5歳の時に、疎開先で、大人達と一緒に玉音放送を聞いた。



高等女学校で良妻賢母教育を受けていた母は、日本が戦争に負ければ、当然子供を刺し殺し、自分も自決せねばならないのだろうと思っていたらしいが、結局何事も起こらずに、戦後の日本が始まった。



まともな食べ物はなく、常に腹をすかしていた。米国の援助物資だった家畜の飼料で作ったパンと、ふかしたジャガイモ、サツマイモが昼食の定番だった。風呂などというものはなく、母が湯に浸した手拭いで身体を拭いてくれるのが最大の楽しみだった。蚤に食われたあとが方々で膿んで酷い状態だったが、包帯とか絆創膏などというものはないので、古い浴衣を切り刻んだもので代用していた。今の時代から見れば「極貧以下の生活」だったと思う。



「シンチュウグン(米兵)に『チョコレート・ギブミー』というと何か呉れるぞ」と聞いていたので、一所懸命そう叫んでみたが、私自身は結局何も貰えなかった。しかし、時折、闇ルートで米軍の食料が入手できた。たまたまありついた缶詰のランチョンミート(現在のSPAM)が、「こんなにもおいしいものが世の中にあったのか」と思うほどにおいしかったのを今でも覚えている。



終戦後、一家は大阪に戻り、私は大阪府立北野高校から京都大学法学部へ進学した。



高校時代は結構秀才で、特に理数系に強かったので、理学部に進むことに興味があったが、実験や観察は苦手だったので、周囲が奨めた「就職に有利な工学部」には行く気がなかった。結局は、あまり迷うこともなく、「普通の就職」が可能な法学部に行くことに決めた。先生は東大受験を奨めたが、その気は全くなかった。当時から反骨精神があり、「官」より「在野」の方がよいと、何となく思っていた。



大学に入ってからは全く勉強せず、当時は珍しかったジーンズに革ジャン姿で時折自転車で学校に行くと、門衛に「部外者の学内通り抜けはお断り」と言われて、入れてもらえないこともあった。アルバイトで白タクやバーテンをやって小遣い銭を稼ぎ、漫然と遊んでいた。喧嘩が強くなりたくて、町道場に通って空手(剛柔流)を習ったが、その後大学の空手部(糸東流)に転じて副将を務めた。



当時は安保闘争が盛り上がっていたので、付き合いでデモなどに参加したこともあったが、あまり共感はもてなかった。それでも、当時の大方の若者達の例に漏れず、私も「資本主義には将来はない」とは思っていたので、選挙で自民党に投票する事などは考えてみたこともなかった。



法学部の勉強は全くしなかったが、文学や哲学の本は結構読んだ。特にアルベール・カミュやジャン・ポール・サルトル、フランツ・カフカ、オルテガ・イ・ガゼット等の著作を愛読した。日本の作家では芥川龍之介に傾倒し、若い時から晩年に至るまでの小品や書簡に至るまでを、余すところなく精読した。




伊藤忠商事に就職 (1962 – 1968年)



大学を出たら就職するのが当たり前と思っていたし、当時は新卒側の売り手市場だったから、気楽な気持で友人達と一緒に会社回りをした。たまたま友人の先輩の勤めていた三井物産の屑鉄部に行った時に、その活気に満ちた雰囲気が気に入って、父に相談したら、「商社は賛成だが、伊藤忠か住商にしろ」と言われたので、結局伊藤忠(大阪本社)に入社することになった。



父は住友銀行に勤めていたが、松下幸之助さんがオランダのフィリップス社と合弁で松下電子工業を創った時に、財務担当の副社長に招かれて、後に社長になった。中学生の時に松下さんが家にこられたことがあり、その時に頭をなでてもらったのを今でも憶えている。天才的な経営者としての松下さんの逸話は、父からよく聞かせて貰った。生々しい話だったので印象が強く、「成る程」と思うことが多かった。



伊藤忠では、機械部門に入りたいと希望を出したら、「輸出繊維機械課」に配属された。インド、パキスタン、フィリピン、インドネシアなどに、賠償や円クレジットで豊田自動織機が作る紡績機械などを輸出する課で、1年目は経理の担当、2年目からはインドの担当になった。



一年間の経理担当は、後で考えると大変大きな勉強になった。毎月の決算で課長が数字のチェックに苦労しているのを見て、それまでの大福帳的なやり方を一新して、契約毎の採算管理が出来るような新しい帳票システムを考案した。



当時ポンドの切り下げがあり、ポンド建てでやっていたロシア向けの延払取引で厖大な損が発生したので、「もし今後ドルでそういうことが起こったらどうなるのか」と思うと心配になり、自分で工夫してエクセルのような表を作り、手作業でシミュレーションが出来る方法を考案した。当時はコンピューター等というものは影も形もなく、日常の仕事はソロバンか手回し計算機だったが、もしその時にコンピューターがあれば、そのままその世界にのめり込んでいたかもしれない。



隣の「輸入繊維機械課」は、ドイツやスイス、イタリアなどから機械を輸入する「スマートで格好のいい課」だったが、羨ましいとは思わなかった。当時は「輸出で外貨を稼がなければ日本は立ち行かない」という切羽詰った使命感があったので、泥臭い発展途上国向けの仕事に誇りを持っていた。先輩達の働き振りには目を見張ることが多く、「商売の駆け引き」といったことについても多くを学んだ。



入社3年目に、かつては「相場の神様」と謳われた小菅宇一郎会長が相談役に退いたのを機に、相談役付きの秘書になった。小菅さんは情に厚い人格者で、多くの薫陶を受けたが、秘書室の仕事は全く性に合わなかったので、「営業の最前線に帰りたい」と再三陳情した結果、2年半あまりで解放された。



尤も、秘書室で学んだことも多かった。大会社のトップ人事の決まり方とか、それを巡っての色々な人間模様が、手に取るように見えたからだ。人によって差はあるが、権力に擦り寄り、主流から外れないようにそれぞれに必死に工夫している様は、あまり美しいものには見えなかった。その為、私には、「大会社で高い地位につきたい」という願望を持つことが、生涯を通じて遂に一度もなかった。「他人に真似が出来ないぐらい働き、自分で納得の出来る実績を挙げる」ということだけが、常に私の心の拠り所となった。


详细:

https://ted.dino.vc/wf/story/16781334

http://dino.revolver.co.jp/wf/news/16781595



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