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标题: 中村紘子さん 大腸がん治療のため演奏活動休止 16-7-26逝 [打印本页]

作者: 顾汉现    时间: 2015-1-28 09:04
标题: 中村紘子さん 大腸がん治療のため演奏活動休止 16-7-26逝
中村紘子さん 大腸がん治療のため演奏活動休止



中村紘子さん
演奏活動を休止する中村紘子さん
Photo By スポニチ

 ピアニストの中村紘子さん(70岁/15-1-28)が大腸がんの治療に専念するため、演奏活動を休止すると所属事務所が15-1-27日、発表した。

 15-2月1日から15-3月1日までの公演は中止する。事務所によると、昨年2月、腸閉塞(へいそく)の手術をした際にがん細胞が見つかった。治療しながら演奏活動をしてきたが、今年1月下旬、あらためて初期の大腸がんと診断されたという。演奏活動の再開時期は、経過を見て判断する。

 昨年、演奏活動55周年を迎えた中村さんは「しばらくは猫をかぶって、おとなしくして、治療に専念いたします」とコメントした。


作者: 顾汉现    时间: 2015-1-28 09:07
ピアニストの中村紘子さん 大腸がん治療で活動休止へ「しばらくは猫をかぶって」

2015年1月27日

ピアニストの中村紘子さん 大腸がん治療で活動休止へ「しばらくは猫をかぶって」

 世界的ピアニストの中村紘子さん(70)が初期の大腸がんと診断され、15-2月1日から3月1日まで予定されていた演奏活動を休止することが分かった。所属事務所が1-27日、公式サイトで発表した。

 発表によると、中村さんは医師による検査、診察を受けたところ、初期の大腸がんと診断され、医師団と治療方針に関する詳細な協議を行った結果、入院を伴う検査と治療をすすめられたため、演奏活動を休止することになったという。

 昨年、演奏活動55周年を迎えた中村さんは「しばらくは猫をかぶって、おとなしくして、治療に専念いたします」とコメントした。

 所属事務所は、「公演を楽しみにしていただいていたお客さまには大変なご迷惑とご心配をおかけいたしますこと、心よりお詫び申し上げますとともに、ご理解のほどお願い申し上げます」とし、今後については「経過をみながら治療期間等を医師団と相談し、演奏活動の再開については改めて皆さまにご報告させていただきます。中村紘子本人はコンサート活動の再開に並々ならぬ意欲を持っており、再び華やかでパワフルな演奏をお届けできるよう前向きに治療に取り組んでまいります」としている。

 中村さんは1965年のショパン国際コンクールで入賞し、活躍の場を世界に広げたピアニスト。若いピアニストの育成にも力を入れており、プライベートでは、74年に芥川賞作家の庄司薫さん(77)と結婚。2008年には、紫綬褒章も受章している。

 中止となる公演は以下の通り。
◆2月1日 新潟・長岡市立劇場◆8日 兵庫・洲本市文化体育館◆11日 愛知県芸術劇場◆14日 北海道・北見芸術文化ホール◆21日 山形テルサホール◆3月1日 広島・呉市文化ホール

[ 2015年1月27日 16:53 ]
  

作者: 顾汉现    时间: 2015-1-28 09:38
中村紘子

中村 紘子
基本情報
出生名        野村 紘子
出生        1944年7月25日
日本の旗 日本、山梨県東山梨郡塩山町(現・甲州市)
学歴        桐朋学園女子高校音楽科
ジュリアード音楽院
ジャンル        クラシック
職業        ピアニスト
公式サイト        http://nakamurahiroko.com/
ウィキポータル クラシック音楽        ポータル クラシック音楽
中村 紘子(なかむら ひろこ、1944年7月25日 - )は、日本のピアニスト。旧姓名、野村紘子。本名、福田紘子。
1965年のショパン国際ピアノコンクールで、日本人として、田中希代子の1955年初入賞[1]以来、10年ぶり二人目の入賞者として広く知られている[2]。
山梨県東山梨郡塩山町(現・甲州市)に生まれ、東京都世田谷区等々力で育つ。夫は小説家の庄司薫。紘子自身も後年著述業に進出した。

目次  
1 人物・来歴
2 評価
3 レパートリー
4 エピソード
5 出演歴
5.1 コンサート
5.2 テレビ
5.3 テレビコマーシャル
6 著作
7 注釈
8 出典
9 関連項目
10 外部リンク

人物・来歴
陸軍少佐野村典夫と曜子(旧姓中村)の長女として、疎開先の山梨県で誕生。ただし戸籍上は曜子の妹として入籍されている[3]。母中村曜子は、印刷会社経営を経て、1967年以降、銀座の画廊「月光荘」の経営に参画し、ソ連美術を扱って成功を収めた。曜子の主宰する会員制サロン「サロン・ド・クレール」には小山五郎、千宗室、三島由紀夫、浅利慶太、相沢英之、中曽根康弘、石田博英、円城寺次郎、嘉門安雄、谷村裕、永野重雄といった政財界人や文化人が集っていた。なお月光荘は、世界救世教に、レオナルド・ダ・ヴィンチの贋作「『岩窟の聖母』の聖母の顔のための習作」を21億5000万円で売り込もうとした事件(月光荘事件)を機に没落し、1989年に経営破綻した(負債総額188億円)。
3歳半からピアノを習う。桐朋学園の「子供のための音楽教室」の第1期生で、4歳から井口愛子に師事した。同期には小澤征爾、堤剛、江戸京子などがおり、この世代がいわゆる桐朋の黄金時代とされている。慶應義塾幼稚舎在学中、1953年から1954年頃に両親が離婚。母に育てられる。
1954年、全日本学生音楽コンクールピアノ部門小学生の部で全国第1位入賞。慶應義塾中等部に進み、1958年、全日本学生音楽コンクールピアノ部門中学生の部で全国第1位入賞。1959年、日本音楽コンクールで第1位特賞を受賞した。1960年に岩城宏之指揮の東京フィルハーモニー交響楽団の演奏会にソリストとしてデビュー。同年、NHK交響楽団初の世界ツアーのソリストに抜擢された。その際、同行指揮者の外山雄三と岩城宏之の部屋を夜な夜な「往復」したことで師匠が激怒、井口門下を破門される[要出典]。
その後、桐朋学園女子高校音楽科を中退して渡米、日本人として初めての全額奨学金を獲得してジュリアード音楽院に進み、ロジーナ・レヴィーンに師事した。
1965年、第7回ショパン国際ピアノコンクールで、第4位入賞と最年少者賞を併せて受賞した[2]。この時の1位はマルタ・アルゲリッチである。
これは、1955年の第5回ショパン国際ピアノコンクールで、日本人として初入賞した田中希代子以来、10年ぶり二人目の入賞であった[1]。中村は、受賞以降、今日に至るまで公式ホームページをはじめ様々な形で、プロフィールに『ショパン・コンクールで日本人初の入賞 』と自己紹介・自己PRをしているが[注釈 1]、これは明らかな誤りである。
このコンクール入賞以後、国内・海外で演奏活動を続ける一方で、ショパン、チャイコフスキー、アルトゥール・ルービンシュタインはじめとする様々な国際コンクールの審査員を務める。日本では第3回浜松国際ピアノコンクールから審査委員長を務め(第1回は小林仁、第2回は安川加寿子)、コンクール創立10年たらずで国際ピアノコンクール連盟に加盟させるなど一級レベルの国際ピアノコンクールにまで持ち上げ、若いピアニストの育成にも力を入れている。
1974年9月に芥川賞作家庄司薫と結婚した。演奏旅行で家を空けることの多い中村の愛猫を庄司が預かるなどするうちに交際、結婚に至った。
ノンフィクション作家・エッセイストとしての顔も持ち、1989年には「チャイコフスキー・コンクール」で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。
2005年、エクソンモービル音楽賞受章。
2008年、紫綬褒章受章。

详细:

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E7%B4%98%E5%AD%90



中村紘子、デビュー55周年記念アルバム。カデンツァ作曲に新垣隆

2014-07-25 15:35:28

日本を代表するピアニスト・中村紘子が、デビュー55周年を迎え、9月17日に記念アルバム『中村紘子 デビュー55周年記念アルバム モーツァルト ピアノ協奏曲第24番&第26番「戴冠式」/ショパン マズルカ集』をリリースする。

15歳で天才少女としてクラシック界へ彗星のごとく現れ、NHK交響楽団初の世界一周公演でデビュー。ショパン・コンクールで初の日本人入賞を果たすなど、時代を駆け抜けてきたピアニスト・中村紘子。7月25日には古希(70歳)の誕生日を迎える。:

http://www.barks.jp/news/?id=1000106016


作者: 顾汉现    时间: 2015-1-28 09:42
中村紘子ピアノ、外山雄三指揮「東京フィル第852回オーチャード定期演奏会」 デビュー55周年、ロマン派の神髄鳴らす

2014/9/30 6:30

 日本のピアニストの代名詞ともいえる中村紘子が2014~15年の今シーズンでデビュー55周年を迎え、9月23日の東京フィルハーモニー交響楽団定期演奏会に出演した。指揮は長年コンビを組んできた外山雄三。演目はリストの「ピアノ協奏曲第1番変ホ長調」。妥協せず難曲を選び、華麗なロマンチシズムを鐘のごとく鳴らした。

 「5年前も外山先生の指揮でリストの第1番を弾きましたが、今日はその時よりもテンポが遅かった。私は追い立てたのですけど」。演奏後、中村はこう語り始めた。聴いた感じではそう遅い印象はなかった。非常に速い超絶技巧が随所に組み込まれた難曲をさらにもっと速く弾きたかったというのだから驚きだ。「リストの一番弟子だったエミール・フォン・ザウアーという大ピアニストが第1番の録音を残しています。それは速く弾かず、揺るぎなく堂々とした演奏です。そこで今日はそういうことならひとつザウアー風に行くかと」

 中村紘子が戦後日本のクラシック界をけん引してきたピアニストであることは間違いない。小中学生の頃から国内のコンクールで優勝を重ね、1960年に岩城宏之指揮の東京フィルとの協演でデビュー。同年にはNHK交響楽団の世界ツアーに随行するソロピアニストに抜てきされた。米ジュリアード音楽院に進学し、ウクライナ生まれのユダヤ系のピアニスト、ロジーナ・レヴィーンに師事した。門弟に米国人初のチャイコフスキー・コンクール・ピアノ部門優勝者のヴァン・クライバーンがいる名教師だ。そして中村も65年にはショパン国際ピアノコンクールで4位入賞と最年少者賞を受賞した。

 演奏会の回数は国内外で累計3700回を超える。レコードやCDなどへの録音タイトル数は50点近くもあり、いずれもクラシック分野では異例の売れ行きを示してきた。テレビの音楽番組にも積極的に出演し、指揮者の小澤征爾とともにクラシック音楽を日本に普及させた最大の功労者の一人である。中村や小澤に憧れてピアノを習ったり、クラシック音楽を聴き始めたりした人が日本にどれだけ多くいることか。熱心なファンは数十年間にわたって中村や小澤の動静をずっと追ってきた。彼女らが世界に打って出た時期は日本の高度成長期と重なる。その中村がデビューして55年というのは感慨深いと思う人も多いだろう。

http://www.nikkei.com/article/DGXMZO77455020U4A920C1000000/



中村紘子Official Web Site:

http://nakamurahiroko.com/



中村紘子 検索:

https://www.google.com/search?hl ... huser=0&tbm=nws


作者: 现代化研    时间: 2016-7-29 09:06
時事ドットコムニュース>社会>ピアニストの中村紘子さん死去=ショパンコンクール入賞-72歳
  
ピアニストの中村紘子さん死去=ショパンコンクール入賞-72歳

 ショパン国際ピアノコンクールに入賞し、日本を代表するピアニストとして活躍した中村紘子(なかむら・ひろこ=本名福田紘子=ふくだ・ひろこ)さんが16-7-26日午後10時25分、大腸がんのため東京都港区の自宅で死去した。72歳だった。葬儀は近親者で行った。後日、お別れの会を行う予定。喪主は夫で作家の庄司薫(しょうじ・かおる、本名福田章二=ふくだ・しょうじ)氏。
〔写真特集〕ピアニスト中村紘子さん
http://www.jiji.com/jc/d4?p=nmh729&d=d4_aaa

 山梨県生まれ。幼時からピアノを習い、小澤征爾さん、堤剛さんらと共に桐朋学園「子供のための音楽教室」第1期生となった。
 全日本学生コンクールの小学生、中学生部門で続けて優勝、「天才少女」として知られるように。1959年日本音楽コンクールで1位特賞。翌年にはNHK交響楽団などと共演した。
 その後、米ジュリアード音楽院へ留学。65年の第7回ショパンコンクール(マルタ・アルゲリッチ優勝)で、日本人としては10年ぶり二人目の入賞(4位)と最年少賞を受けた。
 以降、トップピアニストとして国内外で演奏活動を展開。古典派からロマン派に至るレパートリーを軸に、華麗な技巧と豊かな感情表現で多くの聴衆を魅了した。
 チャイコフスキー、ショパンなど国際的コンクールの審査員として後進の指導にも尽力。浜松国際ピアノコンクールの審査委員長を務め、短期間で世界レベルの競技会にレベルアップさせた。
 自身の体験を基に執筆活動も行い、89年「チャイコフスキー・コンクール」で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。華やかな容姿と親しみやすい語り口で、音楽番組の司会やテレビCMでも人気を博した。 
 2008年紫綬褒章、09年日本芸術院賞恩賜賞。15年1月に大腸がん治療のため、演奏活動の一時中断を発表。その後、復帰と休養を繰り返し、今年16-4月に東京交響楽団と協演。16-5月8日に兵庫県洲本市で行ったリサイタルが最後の公の舞台となった。(2016/07/29-01:38)

0160728at87_p.jpg (24.11 KB, 下载次数: 52)

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作者: 现代化研    时间: 2016-7-29 09:25
中村さん、最後まで演奏復帰に執念…夫に夢語る

2016年07月29日 09時48分

都内の自宅で、愛犬とくつろぐ中村さん

 16-7-26日に亡くなったピアニストの中村紘子さんは晩年はがんとの闘病が続いたが、最後まで演奏活動への復帰に執念を見せた。

 最後は夫の作家・庄司薫さん(79)に見送られた。

 「何より本人があまりにも早い死にびっくりしているでしょう。紘子は最期まで美しく賢いピアニストでした」

 7-28日に密葬を終えた庄司さんは、グランドピアノのある東京都内の自宅に戻った妻の遺骨を前に悲しみをこらえていた。

 「病院はつまらない」との中村さんの希望で、2人は25日の中村さんの誕生日から、愛犬のミニチュアダックスフントが待つ自宅で一緒の時を過ごした。中村さんは夫からイヤリングを贈られ、「モーツァルトからラフマニノフまで、音色に新しい輝きを与える奏法を試したい」と語っていたが、翌日、夫らにみとられて旅立った。28日の出棺に際し、庄司さんは何度も妻の顔を見つめ、棺ひつぎに2人の著作や写真を納め、最後のお別れをした。



カレーCM・文筆活動…多才な音楽家、中村紘子さん死去

2016年7月29日05時11分

 72歳で亡くなったピアニストの中村紘子さんは、広く親しまれた大輪の花のような存在だった。華やかな笑顔でテレビにもしばしば登場し、文才も発揮。その多才ぶりでクラシックを身近に感じさせた。

中村紘子さん死去 国際的に活躍したピアニスト、72歳

 私生活では1974年、作家の庄司薫さんと結婚して話題に。きっかけは、芥川賞を受けた庄司さんの小説「赤頭巾ちゃん気をつけて」に自分の名前が登場するのに気づいた中村さんが、庄司さんに電話したことだった。

 ハウス食品のカレーのCMではショパンの「華麗なる大円舞曲」を弾き、国際コンクールの審査員を務めれば、その内幕を書いた「チャイコフスキー・コンクール」で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。その後もエッセー「ピアニストという蛮族がいる」などで文筆家としても活躍した。

 得意としたのはショパン。「これほどピアノの魅力を尽きせぬ美しさで伝えてくれる音楽はない」と語っていた。若い音楽家には「この音楽で何を伝えたいの?」と問いかけ、時間をかけて若い才能を育む大切さを訴えていた。



中村紘子-wikipedia:
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中村 紘子
出生名        野村 紘子
生誕        1944年7月25日
日本の旗 日本、山梨県東山梨郡塩山町(現・甲州市)
死没        2016年7月26日(満72歳没)
学歴        桐朋学園女子高校音楽科
ジュリアード音楽院
ジャンル        クラシック
職業        ピアニスト
公式サイト        http://nakamurahiroko.com/
ウィキポータル クラシック音楽        ポータル クラシック音楽
中村 紘子(なかむら ひろこ、1944年7月25日 -2016年7月26日[1])は、日本のピアニスト。旧姓名、野村紘子。本名、福田紘子。1965年のショパン国際ピアノコンクールで、日本人として、田中希代子の1955年初入賞 [2]以来、10年ぶり2人目の入賞者として広く知られている[3]。 山梨県東山梨郡塩山町(現・甲州市)に生まれ、東京都世田谷区等々力で育つ。夫は小説家の庄司薫。紘子自身も後年著述業に進出した。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E ... 1%E7%B4%98%E5%AD%90






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